【中国遺伝子操作ベビー】ニュースをスピリチュアル的に考える

HIROです。

先日、中国の研究者が遺伝子操作をしたベイビーを誕生させた、というニュースが流れましたね。

賀氏は26日、受精卵に手を加えてエイズウイルス(HIV)に耐性を持たせた双子の女児が誕生したと発表し、学会に衝撃を与えた。

出典・引用 CNN.jp  https://www.cnn.co.jp/world/35129344.html

このニュースに関する学術的考察は、その専門の方々にお任せするとして、ここではこのニュースをスピリチュアル的に捉えてみたいと思います。

PublicDomainPictures / Pixabay

遺伝子操作ベイビーの背景

今回のニュースによれば、中国の科学者はエイズウイルスが胎児に感染することを防ぐことが目的だったそうです。

あらかじめ遺伝子を操作したうえでエイズウイルスに感染しないようにすることができるというのは驚きですよね。

そこまで科学というのか、医学というのか、進歩しているんだと単純に思います。

病気の克服は医学の世界では大きな課題だと思いますので、このような考えが起きるのはある意味当然の成り行きかもしれません。

iPs細胞を代表とした再生医療は、「病気の克服」に向けた最先端の研究ですし、そうでなくてもさまざまな新薬が開発されているからです。

根本を追求していけば、「病気を治す」ことではなく、「病気の部位を取り替える」ことでもなく、「病気にかからない体を作る」ことに行き着きそうだということです。

 

遺伝子操作の問題点

そうはいっても、遺伝子操作にはいろいろな問題点があると言われています。

  • 倫理上の問題:そもそも人間を思う通りに作っていいのかという問題
  • 安全性の問題:生まれてくるベイビーの安全性はまだ研究途上である
  • 社会的コンセンサス:社会的にその問題に対応できるほど議論されていない
  • その国での法律上の問題:法律は守る義務がありますよね

 

確かに、科学の発達スピードはめざましく、10年どころか5年先すら予測不可能になっており、いろんなことを試したくなる気持ちも出るのかもしれません。

最先端の立場にいたら、なんでもできるような感覚になることも想像できますしね。

そうはいっても、いろいろな問題を解決しないことには先に進むべきではない、というのが多くの科学者の意見となっているようです。

 

 

AIの進歩と2045年問題

とはいっても、科学の進歩は止めようもなくなってくるのは必至です。

2045年には「人間の能力をコンピューターが超える」という時代がやってくるそうです。

AI(人工知能)の情報処理がどんどん進めば、人間の想像をあっという間に超えるような技術が出現してもおかしくありません。

「一部の科学者の先走り」ではなく、AIがどんどんあらたな生命を生み出す時代が来るのかもしれません。

 

ここでしっかりと立ち止まって、基本的なことを決めておかなければ、いつかは歯止めが効かなくなる未来が来るかもしれませんよね。

 

それが「病気の克服」という目的のためなら、なんでもしていいのかどうか、という根本的なことを確認する必要があると思います。

 

 

脱個性に向かうのか?

「病気の克服」という目的に対して、医療の分野ではどのようなことがされているのか?

僕が以前病院に勤めていた頃、ある難病の患者さんから次のような話をされたことがあります。

「こんど新薬が出るという話を聞いたから、その薬を使える頃まで、弱り切らないように体を保っておきたい」

 

この患者さんだけでなくとも、病と闘っている人たちはほとんど同じような気持ちでいるのだと思います。

その思いに応えるために、科学技術者や医療関係者は日々臨床活動・研究活動に励んでいます。

 

その結果が、新薬開発であったり、再生医療だったり、ロボット技術だったりします。

では、これらの結果が最終的に向かう先はどこなのか?

 

そこを想像するとちょっと僕としてはイマイチ共感できない未来になってしまうんですね。

 

新薬が開発されすべての病気が克服された世界。

それはつまり、「病原体」という生物と「人間」という生物の間での生存競争に、人間が勝つことを意味しています。

「病原体」は人間によって駆逐されてしまうのです。

 

再生医療によって、不完全または異常な体の部位が正常なものに置き換えられる世界。

一見素晴らしいことですよね。

手足を正常なものに、肝臓や心臓や腎臓が正常なものに置き換えられるなんて素晴らしいです。

しかしこの考え方の根底には、「障害を持った人」に対する配慮が欠けているようにも感じます。

「障害を個性と考えて、すべての人が生きやすい世界を作る」というノーマライゼーションの理念との整合性はとれるのか、というギモンが湧いてくるのです。

 

そして近年発達が著しいロボット技術。

最近は、バック転できるロボットのお披露目もされていましたよね。

遠隔操作もできるし、VRの発達もあります。

これってつきつめれば、脳さえあればあとはすべて機械で置き換えることもできるということですよね。

 

映画「マトリクス」の世界と同じじゃないのかな、とも思うんです。

 

こうなってくると、すべての人は理想の体を追求するようになり個性は無くなっていくのではないでしょうか?

世界最強の体を誰でも持てるようになれば、オリンピックは必要なくなります。

世界最高の頭脳をAIが超えるようになれば、脳は意識があればいいだけの存在になります。

人種も性別もなくなり、すべてがバーチャルで意識が満足すればいいだけの人生になります。

 

 

スピリチュアル的考察

このような世界を多くの人が望むならその通りになるし、望まないなら別な世界になるかもしれません。

 

まずはちょっと立ち止まって、「スピリチュアル的にどうなの?」という観点から整理してみたいと思います。

 

スピリチュアル的にいえば、もしかすると僕たちの人生は僕たちが「体験」をとおして成長するためにあるのかもしれない、という考えがあるということになります。

 

魂の成長のために、あちらの世界から肉体という入れ物を借りてこの世に降り立ってきた、という考え方ですね。

魂は成長の糧として、自分自身にいろいろな課題を用意して、その青写真のとおりにイベントが起きることになります。

これを運命というそうです。

 

こういった視点で考えると、持って生まれた個性はその人が人生を通して成長するために与えられた特性とも捉えられますよね。

「与えられた」というよりはむしろ「自分でプログラムに組み込んできた」というほうがいいかもしれません。

 

もちろん、今現在病気で苦しんでいる人、障害で不自由な生活を余儀なくされている人からすれば、このような考え方はとってつけたような言い訳に聞こえるでしょう。

「こんなに苦しんでいるのが、経験を積むため自分で仕組んできたこと」

といわれたらやってられないですよね。

 

でも「今ある試練は神様の贈り物」という言葉もあります。

 

どちらが本当かは、結局のところ人生を終了してあちらの世界に行ってみないことにはわかりません。

 

 

では、「人生を終了した後どれだけ成長したか」をあとあとから見返すのはやめて、「今現在どれだけ人生を楽しんでいるか」を基準に考えてみるのはどうでしょう?

 

僕なりの理解では、人生を楽しんで充実して生きることは、結果としていろんな意味で成長することにつながると思っているからです。

 

人生を楽しむ基準は人それぞれですが、仮にすべての人が画一的にスーパーマンだったら、楽しい人生になると思いますか?

 

この一点が引っかかっているので、僕は遺伝子操作は軽はずみにやっちゃいけないと思っているんです。

 

「病気を治したい」という気持ちは誰でも持っているものです。

「不老長寿」を願っている人もいるでしょう。

 

しかし、命が有限だからこそ光る人生もあると思います。

誰でも生まれると同時に死に向かう。

この命の平等があるから楽しみを見いだすことができるのではないでしょうか?